2023年11月4日 三本松歴史講演会「道から読む三本松の歴史と魅力」

香川大学経済学部教授 西成典久氏

過分なご紹介でありました。西成と申します。

今日ですね、この始まりがすみません。

ちょっと遅くなってしまって、今ご紹介があったように、先ほどまでずっと三本松をトランジットモール的に歩いてきました。

非常に話が盛り上がりまして、ちょっとすいません。帰るのが遅くなってしまったんですけれども、三本松、今回ですね、企画ということで、どうやって保井コノさんが、どうしてこの三本松で生み出されたのかというあたりから謎解きを始めていきました。。

私自身も、保井コノさんが今回初めて、こういった機会をいただいて調べていくと、一つですね、なぜ三本松で保井コノさんが生み出されたのか、というところでいくとやっぱり、それは三本松に非常に繁栄した港町があったというところです。

そこで町歩きのテーマとしては、どうして三本松が港町として発展したのか、というところをテーマに、

ぐるぐると歩きながら解説をしていった次第です。

今日ここでご紹介するのも、なぜ三本松は港町として発展していったのかというあたりを切り口に、三本松の歴史をちょっと紹介していきたいなというふうに思います。

ちなみにですね、私自身は今は高松在住で、おそらくですね、おそらく地元の方は、地元のことは、地元の方の方が詳しいので、私も「道から読む三本松」ってこういうふうに読めるんですけど、皆さんはこの例えば地名のこととか当地の名前とか、どんなふうに呼んでますか、とかちょっと聞くかもしれないので、

ぜひちょっと皆さんにいろいろ回答しながら進めていければというふうに思います。

というところで、道から読む三本松の魅力ということで、お話を進めていきたいと思います。

まずですね、いきなり道の方に入る前に、文献から見ていこうというところで、三本松の大内町史をもとにいろいろ調べてみました。

そうするとまずその三本松というのが歴史的に出てくる直接三本松という名前は出てこないんですが、約今から1000年前になりますね、約1000年前、和名類聚抄というふうに呼ばれている平安時代に編まれた辞典があるんです。

その辞典の中にはそれぞれの里の名前、いわゆる郷名というんですけど、郷の名前が日本中調べられていました。そこで讃岐国で大内郡、大内郡にはここに書かれているように引田、白鳥、入野、あるいは興田、ヨダと読むのですね・・という地名があった、そしてそこに里があったということです。

三本松というところが書かれてはないですが、おそらくこの時期は白鳥のところに入ってたんじゃないかな

というふうに考えられます。

だいたい930年、今から1000年ぐらい前のお話です。

続いてですね、続いて一気に時代が進みます。

おそらく歴史的な資料として、一番初めに三本松という地名が入ってくるのが、その大内町史によると、この兵庫北関入船納帳といって、兵庫にあった港に入るときに、そこで関税を取るんですね。

関税を取るときに、どこの船を、どこをどうやって取ったか、どこから関税をいくら取ったかというと、全部帳簿につけているんです。

その帳簿がちょうど1445年の一年分が残ったんですね。

非常に貴重な資料になってますけど、そこを見ると讃岐の国の中で、これだけの、今ここに書かれている郡の港から兵庫の方に物が運ばれていたそうです。

これを見るとですね、一応これは入管数という、そこの帳簿に書かれていた数のランキング順で示していますけど、一番一位はですね、宇多津でした。1445年の頃、最も兵庫から上方の方、大阪の方に運ばれたのは宇多津でした。その次、塩飽(しわく)。島っていうのは小豆島のことです。そして引田が来て、三本松。引田と三本松それぞれ 21と20なので、ほぼ同じぐらいの港町として上方の方に物を送っていたということになります。

その後、平山というのは坂出のことです。野原は高松のことです。多々津というのは多度津、方本というのは屋島。こうやってその讃岐の国の様々な港町から運ばれているんですけど、その中でもかなり上位の方に三本松があることが分かります。

先ほど町歩きのとき、ちょっと質問をしたんですけど、地理的に見るとですね、こういうような形で

ちょうど左下の方に三本松、この辺りが三本松で、こっち播磨灘を挟んで兵庫とかがあります。

非常に大阪まで近いところにあるということが分かってもらえるかと思いますけど、この讃岐の国から当時、1400年代ですね、大阪の方にどんな物資が最も運ばれていると思いますか?

ここから先ほどの町歩きに参加された方はもう答えがわかったんですけど、讃岐の国から上方に、どんなものが・・・素晴らしいですね。さすがです、こちらにも詳しい方がたくさんいらっしゃいます。

先ほども街歩きしながら大体質問している途中でも皆さん回答が出てくる。塩なんです。砂糖はもうちょっと後の時代になるんですね。砂糖はまだ後ほど出ますね。この時、讃岐の国から多くの塩が送られていたんですけど、しかしですね、三本松だけ違ったんですね。三本松は塩も送ってるんですけど、もっと送っているものがあったんです。これは讃岐の国で唯一、三本松だけでした。その物品は何でしょう?

これでも難しいです。ですけど、結構皆さん一般的に食べている。小麦ではないですね。もっと一般的に食べています。お米です。そうです、讃岐で最もお米が上方に送られていた所が、この三本松だったんですね。

これをもとに三本松周辺、この大内郡が米どころかどうだったかというのは全て言い切れないんですけど、しかし、多くのものが集まっていたということは確かです。

また後々お話ししますけど、この1400年頃の中世の頃というのは、実は三本松は非常に栄えてたんですね。

その栄えていたというのは三本松だけではないんです。この大内郡がとても栄えているんです。それはまたちょっと後ほどお話ししたいと思います。

ちょっとこれ小さくて見にくいんで、私がもう声で言いますけど、三本松は塩もありますけど、米が607。他はですね、5とか60とか、あと10とか15とか、香西でようやく180ぐらい。その中で607、三本松は送っていた。塩飽(丸亀) からは5,000。島から小豆島からも5,000。ほとんどが塩だったんですけど、三本松だけで見たらお米がかなりの分送られていたということになります。

時代はもう少し、進んで江戸時代の文献資料になります。

江戸時代といっても江戸時代の後期になりますね。1854年、もう幕末ぐらいらいの頃、讃岐国名勝図会、名勝図というのが描かれました。そこで言うと三本松村というのが描かれていますね。この手前に見えるのが勝覚寺。勝覚寺さんの奥にここに三本松のいわゆる漁村といいますか、そういう港町があるんで、この集落の向こう側に見えるのが、これ砂浜です。砂浜があって、おそらくここに描かれていた松ですね。ですので、想像するに当時は津田の松原のような場所に集落があったというふうに考えられます。

その向こうからここに川のようにして入ってきている港があります。これが三本松の昔の旧港です。三本松の古い港の元になる場所になります。こういうふうに讃岐国名勝図会の絵が描かれていて、高松より行程八里、民家軒を並べ豪商富賣工人、漁家等多数がいた。千石以上の大船、数十艘あり、近くで秀で繁華の地なり、近くでもこの地が最も栄えていたと、昔このところに大松が三本あって、ゆえにこの名前になったというふうに讃岐国名勝図会では書かれています。

このようにですね、非常に江戸時代1800年代も栄えていたわけですね。この時はなぜ、何で栄えていたなという、先ほど回答が来てましたけど、この時代は何で栄えていたと思いますか?

江戸時代後期ですね。江戸時代、何で栄えていたのか。そうですね、ちょっと聞こえてきました。砂糖ですね。砂糖で栄えていました。だいたい1800年代に入るともう白い砂糖を作れるようになって、それらを多くの大阪だけじゃなく日本中にそれを送るような港に成長していました。

なので、かなり海船、船をですね、船で出して砂糖を積み出していたというふうに考えられます。

ちょっと見にくいですけど、三本松廻船ですね。三本松の船があらゆる港に寄った記録があるんですけど、ほぼ日本中ですね。この西回り航路と言われている日本海側、なので、秋田の方に行っても三本松の船の証が残ってたりします。日本中をめぐっていた三本松の船たちということになりますね。なので、かなり操船技術も巧みに操るような船乗りも、この地に住んでいたというふうに思われます。

そして先ほども言ったように白い砂糖ですよね。その三盆糖というふうに当時は言うんですけど、三盆糖というのと、三本松というのが混同されて、白い砂糖を三本松というふうに呼ばれるぐらい、非常に三本松から砂糖が出るということが日本中知られるような状況になっています。

もう少しまた時代はちょっと進みます。

これが大体、大正昭和初期の頃に撮影された三本松の中町付近の通り筋になります。この頃ですね、蔵づくりで非常に、お金がないと作れないような建物を作りに、一気に当時 面識がわかります。

この時期もやっぱり砂糖として栄えてはいたんですけれども、しかし徐々に陰りが出始めていたというような時代のようです。

しかしですね、多くの人が住んでいたために、普通にいわゆる砂糖だけじゃなくて、ここでその人々が物を買ったり売ったり、例えばお酒を造るとか醤油があったりとか、一般的に皆がここで会合するようなものを一気にこの場所に軒を並べていたそうです。なので、そういう意味で言うと砂糖は少しずつ他の地域でも作れるようになって、徐々に徐々に競争力を失っていくんですが、この三本松という町自体はまだまだ元気だった時代です。

安井コノさんはですね、ちょうどこの大正昭和初期より少し前、明治の初期の頃、明治13年になります。

1880年に保井コノさんは9人兄弟の長女として誕生したようです。当時ですね、これだけ栄えていたような場所で生まれるんですけど、しかしですね、三本松としては、これまでいわゆる砂糖で一代を成している時、江戸時代の頃というのは、高松藩だったり幕府にも被護されて、非常に砂糖というところが、製法が外に出ないように守られて、産業としても成長していたんですが、明治になってから一気に状況が変わるわけですね。他の地区でも作れるようになっていくと、そういった中でやっぱり単に指を加えて待っていただけではなくて、やっぱりその三本松に、それまで商売していた人たちはいかにこれからの時代を乗り越えていくということを考えっていう行動をしていました。

その一つがですね、人材育成。人を育てるというところに考え、変わっていったんですね。変わっていたという、これから衰退していくであろう砂糖に変わるものを作る。そのためには、まず人を作るということで、そこで作られた会社が興民社というところです。「興民社」というのは、興というのは、事業を興こす、興こすという興奮するとか、興こす方の興ですね。民というのは民衆の民です。社というのは会社の社、つまり民を興こす会社、ということで作る。

その中で特に若い人たちを起業家精神と、あとはこれからの世の中を渡っていく知識人になるための教育を成していたのは興民義塾というような塾を作っていったそうです。おそらくそこで、ちょうどその時代ですね。明治11年に興民社が作られるので、保井コノは明治13年、その二年後に生まれるわけで、おそらく保井コノのご両親のそういった動きと同一にしながら、子育てについてもそういった興民義塾でおそらく学ぶようなことをしていたんじゃないかなというふうに考えられます。なので、その保井コノさんのことで次に言うとですね、こうやって港町として栄えていくんだけど。それが衰退するところで、町全体として人を育てる、そういった中の一人として保井コノさんが出てきちゃうということな

ので、そう考えるとですね、安井コノさんと三本松っていうのは、切っても切れない関係にあったというふうに考えられます。

ちなみにですね、この三本松、付近でいうと、東大総長になった南原繁という方も生み出すんですんけれども、その方もおそらくそういった起業家精神を学ぶようなところで育っていったんじゃないかなというふうに思います。

かつですね、やっぱり港町として多くの文物がここにやってきたり、人の情報もやってきた。そこが、保井コノさんが

外に行って植物学を学ぶというところの一つのきっかけにもなったんじゃないかなというふうに思います。つまり、保井コノさんは農村部では、きっと生まれなかったんじゃないかなというふうに思いますね。生まれてこなかったというか、保井コノさんは、農村部で生まれたら、そういった人生は歩まなかったんじゃないかなというふうに思います。

当時ですね、大正昭和初期になると、ようやく写真なんかも残ってきまして、これは、おいべっさんと言われている恵比寿神社付近の写真になります。虎獅子です。虎獅子がやられて、子どもたちがそこで獅子舞を披露していたということですね。

でですね、こういった歴史的なちょっとアウトラインを写真だったり文献から紹介したんですけど、この後、地形から少し三本松を見ていきたいなというふうに思います。

三本松ですね。先ほど見たように大内郡の西側のあたりで、水主神社がこの辺りにありますね。水主神社は三方山に囲まれた盆地にありますけど、そこから先に出たこのいわゆる平野部ですね。堆積平野などで川の土砂で作られた平野部に三本松港があります。そこには大きく、番屋川、与田川、湊川、中川というと、川がそれぞれ流入してきているのが分かります。

興田寺というのを大体その739年頃に作られてきますけど、最も栄えたのは先ほど言った1400年代、1500年 代、いわゆる中世の時代に、この付近は、いわゆる四国中の寺をまとめるようなお寺ができます。それが実は同じだったんですね。興田寺。で、当時は増吽(ぞううん) という空海の再来と呼ばれるような和尚さん、仏教の方が現れまして、金剛さんが現れてその方がここ興田寺を拠点に活動するんです。

当時はですね、虚空蔵院というような非常に高尚な名前でこの興田寺は呼ばれていました。虚空蔵院というような呼ばれ方で、いわゆる上方の方からも注目されるお寺でありました。そういった多くの人たちが集まるような背景があって、それでこの兵庫北関入船納帳に載っていた、その三本松の港というのは 大きく栄えていったというふうに考えられます。なので三本松というのはこの興田寺、そして水神神社、この、要は川の上流です。与田川の上流にある二つの大きな拠点と共に成長していったというふうに言えるかなというふうに思います。

ちょっと次にお話に向けて、ここからカラフルな映像が出てくるんですけど、ちょっとここ私の方で解説していきます。これは色別に示した標高、地図になるんですけど、三本松港がここにあります。

先ほどお伝えしたように、地形的にはですね、この北山というところから山ですかね、このランプロファイヤーのこの辺り付近に広がる平野ですけど、ちょうど地形的に見るとこの付近がこの黄色部分がだいたいその3メートルから4メートルぐらいの標高になります。

この水色の部分というのが大体2メートルとか1.5メートル。つまりこれ見るとですね、海沿いの方がちょっと高くなってですね、海沿いの方がちょっと高くて、内陸部に低い場所がある。こういった地形はですね、瀬戸内海に非常に多いんです。これは詳しくは説明しませんけど、いわゆる沿岸流といって、海の砂の流れでこの海岸線部分が高まっていって、内側はですね、低いまま残るこういったものをラグーンと呼んだりするんですけど、こういった地形のところは、例えば塩田になったりとか、あるいはその後開発されて田んぼに変わるとか、そういうような土地利用として変わっていきます。

三本松のエリアですね、もう少し詳しく見ていくと、こんな風になっていまして、これだけ見るとちょっと分かりにくいんですけど、他の辺りだったり、この辺り非常に低い土地があるんですけど、三本松のこのエリアには非常に高い高まり、陸地的な高まりがあるんです。

この付近がいわゆる三本松の街を作る一つの地形的な理由になっていったということになります。

こういうカラフルなものばっか見てても、ちょっとよくわからないという方もいらっしゃると思うので、もう少し分かりやすく、分かりやすくというか、三本松の街中に入って見て いきたいというふうに思います。ここちょうど三本松の駅ですね、駅から、今お話しているのがこの小学校の跡地になります。港がこの辺りにあります。

ちょっとその、ここもですね、また先ほどと同様に標高地図で示しますと、今我々が立っているあたりというのは、大体3メートルから3.5メートルぐらいの標高のところになります。

この黄色部分ですけど、後々ですね、ちょっともう少し分かりやすい図を示していきますので、これを見るとちょっとその本当50センチとか、1メートルですけど、この三本松のエリアの地形というのは、この高低差が少しずつあります。こういったものを我々はこの微地形というんですけど、この微地形というのが、すごく三本松の街を見るとてもよく作っています。そして三本松という町が、なぜその港町として栄えたかということも、この地形に現れているんですね。

そこをちょっとまた、この後もっと分かりやすい図を見せながら解説をしていきたいと思います。ちなみにですね、これハザードマップですね。スライドのハザードマップになるんですけど、先ほどちょっと高低差でいろいろ示しましたのが、三本松地区でいうとこの辺りというのは2 . 5メートルよりも高いエリアで、そこまで津波の影響がないでしょうというふうに描かれています。

ちょうどこの三本松の旧港ですね。昔の港周辺がちょっと水でつかるかなというぐらいのところです。後々こういったところがまた街を見る上で重要な視点になっていきますので、ちょっとなんとなく覚えておいてください。

おそらくこの2 . 5メートル以下というところで言ったところは、何かというと、だいたいその1400年代1500年ぐらい、いわゆる中世頃、満潮時に浸かっていたであろうエリアになります。つまり、この青色の部分は、そのまま、おそらく海だったというふうに考えて、問題ないんじゃないかなというところです。個別に見ていくとちょっと違うので、個別に見る、もっと詳細見ていくところは、ゆっくり見ていく必要がありますけど、大きく見るとですね、まず、この辺りは新しく埋め立てたところなんで、ちょっと一回目無視すると、ここから先っていうのはすべて砂浜だったんですね。なので、津田の松原のような砂浜がずっとここにあって、あったと。ここはですねその砂がこういう横長に堆積する地形でした。

こういったものが、先ほど説明したように、沿岸流でできる地形になるんですけど、ここはつまり砂州だったんです。

ここにあるこの道沿いというのは、その砂州上の尾根になります。砂州上の尾根を歩く道がこの辺りですね。

今ちょうど車道になってたりとかしますけど、そのあたりです。この辺りですね。

なかなか地図見にくいことは分からないかもしれません。戎神社が、戎さんがありますね。戎さんは大体その海の海と陸地の境界線に作られることが多いです。つまり、ここにある戎さんは、おそらく当時江戸時代の当時、鳥居より向こうには砂浜だった。

そういうように、その神社とか見ていくと、その当時の町の歴史というのが見えてきます。

これらを見ていくとですね、この砂州の内側に、こういった、満潮時になると海になるエリアというのが一気に見えてきます。

先ほどちょっと戻しますと、これが2メートル以下が青のところ、つまりこの水色、ちょっと水色の部分というのが、2メートルから、2.5メートルのエリアなんですけど、この辺りが一気に、中世の頃になると海面が今よりも高いので浸かるわけですね。

じゃあ、この当時どういうふうにして、この地形が使われていたかというと、これらはもう推測でしかないんですけど、まず中世の船というのは、船というのは現代のような岸壁につけるような船ではなくて、その多くは砂浜に打ち上げて、満潮時に船を持ってきて砂浜に乗っけて、その後干潮になると船が陸地に残る。そうすることで船を修理したりとか、あるいは虫食いから予防したり、そういったような船の使い方をしていました。そういうふうに考えるとですね、この三本松のこの地形は、まさに、ここから中に入ると外海からの影響がなく、それがですね、また、干潮時には一気に陸地がまた現れる。極めて中世の頃の船の利用としては極めて合理的な港だったと考えられます。なので、この辺りには船がおそらく入っていて、この辺り船をたくさんつけていたんじゃないかなというふうに思います。というふうに思います。これはあくまで私は地形と道から読んだことなので、皆さんとしても、ここはこうなんじゃないかというのがあれば、ぜひまた教えていただきたいと思うんですけど、で、ですね、こういったふうに見ていくとですね、ここに勝覚寺があります。先ほども説明したんですけど、お寺とか神社がどっちを向いているかというのは結構意味がありまして、まず、ここの戎さんもそうですし、この付近にある恵比寿神社もやっぱり海を向いていました。ただですね、この勝覚寺はどっち向いてますか?東向いていますよね、これ何でかということなんです。北を向いていない。東を向いている。そして勝覚寺さんは海暁山というような山の名前で、別名でも別称もあります。海を見るというところに、すごく意識されている。でもその理由もですね、この普通の我々が暮らしているこの標高地図じゃないところではわからないんですけれども、標高で見ていくと、なんとなくその理由が見えてくる。それ何かというと、勝覚寺さんの東側に見ていくと、ずっと地形的には舌状に舌のように伸びている地形があります。ずっと伸びていて、この勝覚寺さんの目の前の、この道っていうのが尾根になる。なんで、ここから見るとずっと徐々に徐々にゆっくり下がっていく点ですね。つまりこの辺りっていうのは、当時も港として使われていた、船着き場として使われていたというふうに読み取れるんじゃないかなと。その証拠がですね、この道の敷地の入り方ですね。

こちらというのは意外とその、この南北と言いますかね、こういう格子状にグリッドにこうやって道が割と綺麗に入っているんです。ただ、この勝覚寺さんのこの東側だけ道がですねグリッドに入ってないんですね。網の網の目状じゃないです。それは何かといったら、これは地形に合わせて道が作られてくる。ここは舌状に伸びているので、そこで細い道、敷地はですね、こういうようにその敷地に海岸線に合わせて作られていった。だからこの辺りというのは、道が斜めに入って、敷地がまっすぐ正方形ではないというふうに見て取れるんじゃないかなというふうに思います。

道から読んでいくとそういうように、昔、この辺りは港として利用されていたんだということが見えてきて、そうするとですね、三本松のこの地形というのは、非常に多くの船が止められる天然の良港だったと、あくまでもそれは中世の頃の船にとってですね、良好な地形だったというふうに言えます。

これですね、もう少し広く、この2.5メートルという辺りが中世の頃はおそらく海だった辺りで、見るとほとんどがこの辺り海だった。この辺りまでずっと海が寄り付いていた。海岸線が寄り付いているわけですね。いわゆる古い阿波街道と呼ばれているような街道が通っていますね。阿波街道はこの水際線の辺りをぐーっと、ずっと通っていきます。

ここからその海岸線よりの方へは、そういう古い道はおそらくないんですね。この地形を見てもらうと、このあたりに、やはり砂州の高まりがあるわけですね。陸地に高まりがある。ここが先ほど説明した三本松なんです。そしてこの辺りは後々白鳥神社になる神社になるエリアです。

そんな風にして地形が見えてくると、いうふうに言えるかなというふうに思います。

もう3メートルともなると、この辺りでも三本松にあった高まりもなくなって、おそらくこれはですね、1000年以上前の、1000年よりも前の話。

この先ほど930年代に現れた、和名類聚抄という平安時代の辞書は、三本松という地名はなかったわけですけど、この時に果たしてここに、どんな港があったかというのはなかなか想像しにくいんですけど、私が類推するんです。

ようやく三本松の地名が出てくるのが中世の頃ですので、古代の頃というのはこの辺りに、そういう意味での港というのはどこまで存在したかというのは、ちょっと定かではないかと。

むしろですね、この時に重要だったのは、やっぱり興田寺ですね。興田寺はこの川を登ってやってこれるエリアにあったというところで、そういったところで、うまく地形に合わせてこの歴史的な船の使い方とか道の入り方というのが行われてきたんじゃないかなというふうに思います。

では、最後に道からもうちょっと見てみようというところで、いろいろ道の話、もうすでにお話ししましたけど、もうちょっと道に注目してお話ししていきたいというふうに思います。

まずですね、こういった道を私自身が見る際にどういう、どの道が骨になる位置から探ります。

まず、骨になりそうな道というのは、こういう道かなというふうに思っています。まず、この先ほど見たように、基本的に現在温暖化の時代であるんですけど、基本的には縄文の頃は最も地球が暖かい頃で、徐々に徐々に寒冷地に向かっているんですね。

非常に大きく大きな時代で見るとき、そうすると100年前200年前というのは今よりも海面が上昇しているんです。少しです、なので、この先ほど見た中世の頃というのは、この辺りまで海が寄り付いていたわけですね。なので、古い道路、古い街道というのはその海岸線より、かなり内側に入っていることが多いんです。

これが阿波街道としてつながっていると。その後少し時代は進んで、中世の頃になって作られた枝道というのは、こういった道になるかなというふうに思います。先ほど説明した、陸地の高まり、砂州の高まりの尾根のところに作られている。ここはですね、東に行くと白鳥神社、西に行くと津田に行くと、そういう道になります。それと同時に、南北に貫くような道もいくつかあります。ちょうど、やっぱりこの阿波街道とどうつながるか、というところで言うと、南北で完全に伝わる道というのは二つだけなんですね。それがこの道今目の前にあるこの小学校の道、この道とこちらにある、いわゆる本町のあたりの道、南北の道この辺りが唯一、この南北に貫く道になります。ちょっと小さくて見にくくて、ほとんど皆さんお手元にあるやつを見たら見えると思いますけれども。

その後、だいたい江戸時代になってくると、まず恵比寿神社が1645年に作られたというような記録があります。

それから勝覚寺さんは1684年に現在地に来ています。この勝覚寺さんの敷地の入り方が、非常に不思議な入り方をしているんですか

これは文献にないことを、私なりに町づくりとかそういった分野から歴史的なことを推測するとですね、おそらく勝覚寺さんは、この三本松地区を、エリアをその当時の高松藩から、ちゃんと治めるという意味で、ここに、ぐっとこの町の中にわざと作られたんじゃないかなと。後々これは人工的に入れられたんじゃないかと。

その後、これもすべて類推です。不思議なのが本町とか北町、中町という城下町で使われるような地名が多いんです。類推ですけど、おそらくこの勝覚寺さんの、この東に向く、この前のところを一番格の高い本町と呼び、その後、北町、中町というので、いわゆる当時の江戸時代の街づくりをし直しています。というふうに僕自身は読んでいます。なので、江戸時代になってからまたちょっと新たに町づくりがされたので、その、今見えているこの地形、土地というのは、その多くがですね、江戸時代の時に、ある程度作り直された可能性がありますけど、かなり中世のものが残っているということは確かです。

その後、近代以降になるとですね、例えば、1933年の頃に三本松旧港だったりとか、東洋紡、東洋紡績が1933年に来ます。

このあたりはですね、ずっとこのこの道、この道を水門川という川は、運河のような川が、まだ昭和、大正の頃、残っていたようです。

それで、時代はその後一気に下りますけど、1969年の頃に、この三本松新港をまず新港、新しい港が作られ、ここにあった砂浜は一気に埋め立てられています。

同時期にですね、ここにあった、三本松高校が高台に移転して、1966年に移転しますね。ここが南新町の商店街として、当時としてはかなり画期的な商店街の区画整備が成されたというふうに言います。

こういうようにして徐々に徐々に現在の街が作られていったということになるんですけど、先ほども説明したように中世から近世、江戸時代、そして現代に至るまで、この町の履歴がこの道とか敷地に非常に色濃く残っているのがこの三本松の特徴だというふうに思います。なので、街を歩いていても非常にそういった観点で見ていくと、とても面白い発見が多い町になりますね。

ちなみにですけど、保井コノさんはこの勝覚寺の目の前の辺りでお生まれになって、その後、先ほど説明した興民義塾というのは、この明寿橋というあたりに作られたというふうに文献になるので、おそらく保井コノさんは、やはりこの先ほど説明した、いわゆる三本松の方々が、町の方々が自分たちで作った知育で人材が育成されていったんじゃないかなというふうに思います。

こういった道の歴史、道を読むところにですね先ほどの2.5メートルの海岸線のラインをちょっと重ねてみようと思います。

これだけだとこれだとちょっと見にくいので、

もう少し分かりやすく見せようと、これが、なんとなく皆さんから見て黄色い部分が陸地部分と見てください。

おそらくこの黄色部分は、中世の頃から陸地として残っているエリア、そして、先ほど重要だと言っているの南北の通りですね。唯一、この南北の通りがこの港までつながってたんですけど、時代歴史的に言うと、この道の方がやっぱり古いんですね。三本松コミセンの、目の前の道というのが、実は非常に古い道。それ何かというと、こっちの向こう側にある砂州に渡れる唯一の場所だったというふうに考えられます。

先ほど説明した、戎さんとか、恵比寿神社というのは、当時江戸時代の頃に作られますけど、おそらく、中世の頃は、まだ海がバシャバシャといってた。

じゃあ、なんでこの辺りが、その後江戸時代になって作れるかというと、これも類推です。完全に類推なんですけど、まずですね、西嶋八兵衛という方が生駒さんの時代に高松藩にやってきます。

そこで、どうやらこの与田川を付け替えも、されるんですよね。なので、まず川のそういった一大工事があったということと、江戸時代の頃になると、石積みの護岸が作られます石積みの護岸を作ると、これまで、ちゃぷちゃぷと浸かってた波打ち際が一気に陸地に変わるんですね。これはもう江戸時代を通じて江戸時代の初期の頃から一気に海岸線が埋め立てられているんです。それも今の海岸線の埋め立ての技術は比にはならないので、ある程度町のエリアのみ、こうやって埋め立てがされていくので、おそらく当時この付近というのは、もうかなり干上がっていたので石積みで埋めて、ここを陸地化した。そしてここを宅地開発した。そこで戎さんを作ったというふうに私自身は考えます。恵比寿神社もいっしょに新しく街を作った。都市計画事業、街づくり事業を松平さんの時代に成ったと、そこで三本松は、多く人が住める、陸地が環境ができていった、というふうに考えています。

実際に皆さんと場所を歩きながらやると、もっとここが新たな、皆さんからもっといろんな情報が出るかもしれません。けれども、私には道から読むとそういうふうに読みました。というところですね。

三本松村の地引図っていうのは明治6年から8年の頃に作られています。これは旧大内町の資料があって、今、東かがわ市に問い合わせしているんですけど、ちょっと今探してます、というような感じでございます。これすごく重要な貴重な資料でして、唯一、僕自身が見つけた三本松の古い地図ですけど、これは多分地籍図を中心に書いているので、正確な道の入り方はしていませんが、しかしそれでも、なんとなくのかな、ここは昔、浜辺で、ここから三本松の古い港に入ってきます。ここがですね、東洋紡の来る場所、東洋紡の前には、こうやって水門川と呼ばれる川、運河が通っていた。それがおそらく湊川の方まで繋がって

いたんじゃないかなというふうに想像できますけど、こういったものも残っています。

これは航空写真であります。1960年代の頃。見事にここには砂浜が残っている。砂浜がずっと残っている。

ここだけ江戸時代の方に作られた歴史、旧港が残っている。その昔はこの辺まで海が入り込んでいた、というふうに、考えています。

しかしその後埋め立てによって陸地化ができた。しかし、この辺りはまだまだ低いので、田畑としての利用が中心になっている。

ここが三本松高校がまだある写真ですね。これが徐々に徐々にこの高台の方に移っていく時代です。

それが、1970年代になると、まずこの南新町の商店街というのができてきます。

そしてこの辺りが一気に埋め立てられ、埋め立てが進んでいるということになります。徐々にこっちもまだ砂浜ですけど、ずっと海岸線が埋め立てられていくようになります。

現代がこうなっていると、いうところで、三本松の道とか街の環境がある。

読み解いていくと、こうやって先ほどから説明している中世、近世、現代というふうにすごく色濃くする街の履歴を残していて、私自身もいろんな町を歩きますし、いろんな場所で、こういった解説させてもらうんですけど三本松は非常に面白かったです。

面白かったって言ったらちょっと恐縮かもしれませんけれども、港町で、時代、時代によって水際線が違うんですよ。それとともに街が変わっていくんですけど、高松ぐらいになると、ある時代に区画整理しちゃうので分かんなかったんです。でも、三本松はですね、本当にそれは、ずっと残っているんですよね。なので、この道はおそらくこうだったっていうのがすごく今でも残っていて、そういったところ、どれぐらいの人が共感してくるかも、わかりませんけれども三本松というところの一つの魅力としてですね、この港町に瀬戸内の港町っていうのが色濃くまだ残っている。建物変わってってますけど道に色濃く残っているというところがすごく面白いし、じゃあ、この後それを生かして、どうするかって、あたりはまた別の考えで、いろいろ考えていかなければならないんですけど僕自身は、専門を街づくり、こういった歴史的なことを理解した上で、街をどう変えるかっていうところですね。

そういうところで言うと、三本松駅から出て、この小学校前に向かう、この道っていうのががまず非常に重要な道で、この港前っていうのはですね、やっぱりもっと公園を作ったりとか、もっとこの海と親しめるような環境づくりしていく必要があるんじゃないかな。そう考えると、駅からこの三本松のこの辺りですね、この辺りを全て歩行者空間化して、この辺り公園化していって街が回遊できるような場所を作っていくということも三本松の一つの魅力を、街の魅力を活かせる、郊外にはない魅力を生かせるような街づくりができる可能性があるんじゃないかな、というふうに考えていますが、そういった話はまた別の場所で考えていければいいかなというふうに思います。

ということで、この後の質問とかも受けたいと思いますけど、一応私の講演は、ここでお話を終えさせてもらいたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

先生どうもありがとうございました。非常に経済と地形というか、その高さ、標高の違い、そういうふうなものが、密接に結びついているというふうなのも、よく分かりました。

いくつか、ご質問、構わないということで、どなたか、ご質問がございましたら・・・。