神武社の由来
神武社は明治13・4年頃、奈良県の橿原神宮より神武天皇の御分霊を戴き創祀され、「神武さん」と氏子たちに崇められて、今日に至っています。
正式には「白鳥神社・境外鎮守社・神武社」といいます。「鎮守社」とは、堀書店発行の『神道辞典』によれば、「ある土地の一区域を鎮護し給う神の称」ということなので、言うなれば神武社は大町1・2区の氏神様とでも考えられるのではないでしょうか。
そもそも人間が神祭りをしはじめた起源は、次のように考えられています。古代の人びとは人間以外の山・石・泉・池・老木など自然物や雨、風などの自然現象、その他一切の物に霊の存在を認め、それが人びとの生活を支配するものと考えられ、殊に稲作が始まってからは人間は一層自然に対して敏感になり、長雨・ひでり・虫害・台風などその年の豊作・凶作を左右するような自然現象は皆、天地に満ち満ちている精霊のしわざだと考えるようになりました。
そこで人びとはこのうちの悪霊を呪力(呪術や鏡・剣・玉などの呪力)を借りて払いのけようとし、また、祖先の霊魂は常に子孫の生活を見守っていて、ご加護を垂れて下さるから大切にしなければならないと考えるようになり、祖先の霊を祭る風習が生じたのです。
これら悪霊のお祓いや、お祭りは個人的にも行われたが、集団的にも行われた。集団的な祭の儀礼はしばしば繰り返して行われ、それを行う場所も自然に一定し、そこを神籬(ひもろぎ)とするようになった。これが、神社が出来た一つの原型と思っていいでしょう。
奈良時代になると自然神も人格化し神話伝説の神とも結び付いたり、また早い頃の皇室のご先祖を祭神として載くものが現れてきました。
これが神社のもう一つの原型と考えられ、その典型的なものが八幡宮であります。
八幡宮は応神天皇を主座とし、神功皇后と仲哀天皇の二神を配祀し、これを八幡三所大神と申し上げます。八幡宮の本宮は九州大分宇佐神宮でありますが、その後、山城南部の地に平安奠都の際、宇佐神宮から勧請されて、出来たのが石清水八幡宮で、大和朝廷本来の宗廟たる伊勢神宮と共に「二所宗廟」といいます。八幡宮はまた、皇室から出た武家の祖先ともなるということで、殊に、清和天皇家から出た源頼朝が天下の武権を掌握してからは、その氏神として八幡信仰が、一層盛んになったようであります。
神武天皇は御名を神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、神武というのは奈良時代におくった諡号(しごう・貴人などの死後におくる、おくり名)で、古事記・日本書記によれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫で鸕鶿草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)のお子様にあたります。
神武天皇は東征と大和平定でよく知られており、日向国(九州南東部)を出発して瀬戸内海を通り、いったん難波(大阪)に上陸して長髄彦と戦ったが、これに妨げられて五瀬命を失い、海上を南に迂回して熊野から吉野を経て大和国(奈良県)に攻め入り、諸土豪を征服して終に長髄彦をも倒し、大和一帯を平定し、紀元前660年の正月朔日に橿原に遷都・即位なされ紀元前585年に127歳で崩御なされたと伝えられていますが、詳細は不明であります。
当地の神武社では昭和3年に五十年祭が盛大に挙行されたらしく、今でも石の鳥居にそのことが記録されています。当時の神武社は小高い岡の上にあり、例祭には夜店や屋台が作られ、参詣者たちは上方の浪曲師たちによる「軍国の母」などに耳を傾けたものです。また戦時中には出征軍人たちがこの神武社で武運長久を祈願し、日の丸の旗と万歳の声の送られて出陣して行きました。
昭和33・4年頃に、国道11号線の工事のため、この岡は崩されて、平地となり、神武社は現在地にお祀りすることになりました。
その後、昭和62年7月11日にお堂が新築され、例祭には大町1・2区連合によるカラオケ大会などが催されています。
なお、神武社の例祭は毎年1月1日、4月3日、7月13・14日となっています。