三本松の神社・地名の由来
   

若宮神社の縁起

時は戦国時代のこと、まだ幼い少年であった荷子王は虎丸山へ行ったきり、未だに帰ってこない父を慕って、(あるいはこの子の父は長曽我部の軍勢との虎丸城での戦いにでも参加していたのであろうか)ある嵐の夜、父を探しにでかけたまま帰らなかった。

翌朝、村人が哀れな荷子王の死体を見つけた。そして彼の不幸な一生を不びんに思った村人たちは、荷子王の霊を慰めるために若宮神社を立てたということである。(三崎高儀氏談の要約)この話は昭和10年発行東讃新報に「大川郡郷土異聞」の記事として、掲載されています。

この伝説が事実であるとすれば、時は400年ほど遡り天正3年、長曽我部元親が虎丸城へ来冠して来た頃のことと考えられます。

昔は、村の人びとは戦火のある毎に、家を焼かれ、田畑を荒らされ、ことによると、親兄弟も戦乱に巻き込まれて、失った者も多く、さきの話の荷子王も、その一人かも知れません。さらに自然の脅威が加わります。だから村人たちは常に戦火、ひでり、長雨、虫害、暴風雨、疫病等に悩まされ続けて来たといえます。しかしこれに対して村人たちは無力で、ただ天に向かって平穏無事を祈るしか仕方がなかったのです。

堀書店発行の『神道辞典』によれば、「若宮神社」というのは、「非業の死を遂げた人の御霊を祀ってある社」とあり、「若宮神社」と呼ばれるお社は日本全国に可成りな数あるようです。したがって、村人たちは、悲惨な最後を遂げた荷子王を憐れんで若宮神社を建て、その霊を慰めようと、また一つにはその怨念が村人たちに祟りとなって襲うことを恐れて、又逆に霊を慰めることによってお蔭をこうむりたいと願って、若宮神社を祀ったのではないかと思われます。

一説では、この当尺の若宮神社は霊験「あらたか」で、古川では昔から子供がこの川に落ちて流れても大抵は助かっているとのことです。(故松村勝氏御内儀談)これは非業の最後を遂げた荷子王の霊の助けによるものでないでしょうか。

尚、若宮神社の由来については、誉水村史の中に次のようなこれとはちがった一説も掲載されています。古川橋から与田川橋に至るまでの旧国道沿いの両側の地名を当尺と言っているが、これには様々ないわれがあり、また文字も一様ではない。十尺、東尺、東駅、十若、当雀等と書きます。

この中の「十若」という地名のいわれは、昔、古川には橋が無く、ある時、一人の老人が此処を渡ろうとした時、(どのようにして渡ろうとしたのか、あるいは跳び石でもあって、それを伝って渡ろうとしたのだろうか、不詳)何処からともなく「おじいさん、おじいさん」と呼ぶ声がするので、辺りを見回してみたが、姿が見えず、不審に思っていると、突然、現在の古川大橋のあるあたりに、不思議や10歳ほどの童子が姿を現して、老人に「近々、天下に疫病が流行するから、その時はこれこれの霊薬を用いたら治るであろう」と教えて、また姿を消しました。そこでこの童子に因んでその地域を「十若」と名付けたという伝説があり、現在、その川辺りに祀ってある「若宮神社」この童子を勧請したものだといいます。

何れの説も、その真偽の程は定かでないが、昔の村人たちは自然を恐れ、戦火に戦き、疫病にかかるものも天地に満ち満ちている精霊のしわざだと考え、その精霊はやがて神という観念に昇化して、神を恐れ、神を崇い、その御利益を頂くことによって、平穏無事な生活を計ろうとした心情は共通しているようです。

お社はその後、古川の拡張工事に伴って移転することになり、昭和56年9月23日に改築されて現在に至っているが、もとの位置は現在地より少し南東よりで、今の古川の中程に立っていました。